2012年03月13日

「樋口季一郎」に関するメモ





太平洋戦争時の旧軍にはあほな将軍ばかりが多かったようなイメージが強いが、この人はちょっと興味深い。キスカ撤退戦、占守島防衛戦は太平洋戦争のエピソードとして一応おおまかなところは知っていたが、オトポール事件についてはあまり知らなかった。その全てに関わった人物がいて杉原千畝のようなことをしていたという。集団が狂気の中にあろうとも正気の個人は必ず存在すると思う。
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2011年08月05日

Morris Moe Berg に関するメモ

Why he was chosen was never disclosed, yet significantly, while the All-Star team was in Tokyo, Berg, who spoke Japanese, slipped away and took covert movies of the Tokyo skyline, Tokyo harbor, and munitions facilities from the top of the city's tallest building. The movies were later used in the planning of U.S. bombing raids over Tokyo in 1942. Whether or not this event marked the beginning of Berg's involvement in espionage, the Tokyo story forever labeled Berg as the most shadowy player in baseball history.

http://www.pbs.org/wgbh/nova/venona/dece_berg.html


1934年、日米野球のためメジャーリーグ選抜として来日した際、11月29日に大宮球場で開催された試合を欠場して、東京・明石町の聖路加国際病院の屋上から東京市街一円を16ミリカメラで撮影し、この時に撮影された映像は8年後の1942年に行なわれたドーリットル空襲に利用された。
(wikipedia)

東京築地の聖路加国際病院旧棟の写真
http://farwestto.exblog.jp/8188176/

竣工 1933年(昭和8年) 1997年(平成9年)改築
所在地 東京都中央区明石町10
設計 アントニン・レーモンド
ベドリッヒ・フォイエルシュタイン
J.V.W. バーガミニー
鉄骨鉄筋コンクリート7階建て、地下1階

・Moe Bergはgoogleで翻訳すると萌えバーグと出てくる(笑)

・浅草にあった凌雲閣は通称「十二階」と呼ばれた高層ビルだったが、関東大震災で崩壊した。

・当時、百尺規制というものがあり、百尺=約30メートルのところで高さが打ち止めになっていた。(ウィキぺディア「日本の超高層建築物」)

ああ、そうか。当時の東京というか関東平野はさえぎるものがないから、30メートルでも十分見渡せたんだ。田舎に住んでると周囲に山ばっかり見えるものだから、どうもピンとこなかった。佐賀平野が木造建築で埋まってるような風景か。

謎の大リーガーだな。
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2007年08月11日

ココ・シャネル(ガブリエル・シャネル)

シャネル J12ホワイトセラミック33mm ダイヤベルト/ダイヤベゼル H1420シャネル J12ホワイトセラミック33mm ダイヤベルト/ダイヤベゼル H1420
販売元 : ブランドセレクトショップ リベルタ
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実をいうと”シャネル”というブランドにも高級時計にもあまり関心がないのだが、ココ・シャネルという女性には興味が湧く。
現代の美の価値観の多くは彼女によって創りだされたもので、それまでの古い価値観の破壊者であるゆえに”皆殺しの天使”と呼ばれたりする。ピカソの才能と限界を見抜いたことでも知られている。
女性は痩せている方がよいという発想も彼女からだ。

ブランドの創始者というより一人の天才として興味深い。
それにしても車が買える値段の時計とは恐れ入る。
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2006年12月14日

ヒル国務次官補マツザカ問題を重視

ヒル国務次官補も「マツザカ」心配
 「マツザカはボストンに向かっているのか?」。北朝鮮核問題をめぐる六カ国協議の米首席代表ヒル国務次官補は13日の記者会見で、米大リーグ、レッドソックスと西武の松坂大輔投手との入団交渉の行方に強い関心を示した。

http://www.daily.co.jp/newsflash/2006/12/14/0000191900.shtml
デイリースポーツ12月13日

「私にはとても大事なことなんだ」とのたまっていた。ボストン出身らしい。

クリストファー・R・ヒル(Christopher R. Hill)
アメリカプロ野球チームのボストン・レッドソックスの大ファン。
アメリカの外交官であり、現在東アジア・太平洋担当国務次官補。
六カ国協議におけるアメリカ代表でもある。
(参考ウィキペディア)
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2006年05月30日

二人のスー・チー

アウンサンスーチー(Aung San Suu Kyi、1945年6月19日 生)
ミャンマーの非暴力民主化運動指導者。1991年ノーベル平和賞受賞。

イギリスからの独立を主導し暗殺された「ビルマ建国の父」アウンサン将軍の娘。

ミャンマーでは87年に国軍がクーデターを起こして軍事政権が誕生し、民主化運動は徹底的に弾圧された。
アウンサンスーチーは屈することなく、国民民主連盟の結党に参加し、一度は選挙で大勝するが、軍政側は権力の移譲を拒否。現在、三度目の軟禁状態にある。

軍政への国際社会の批判は厳しく、最近も国連のガンバリ事務局長が接触を試みた。


舒淇[スー・チー](SHU Qi1976年4月16日台湾生まれ)
台湾出身の女優。

高校在学中に芸能界デビュー。95年に出版された写真集をきっかけに当初はセクシー・アイドル路線で活躍し、ヌードも披露していた。

レスリー・チャン主演の『夢翔る人 色情男女』に出演したところエロカワイイ系の演技が評価され、香港電影金像奨最優秀助演女優賞と最優秀新人賞をダブル受賞。

99年『ポートランド・ストリート・ブルース』(98)で再び香港電影金像奨最優秀助演女優賞を獲得。
02年、リュック・ベッソンの『トランスポーター』に出演。今やアジアンビューティの代表的存在。
日本では烏龍茶のテレビCMで有名になった。

先日『トランスポーター』がTVで放映された後、「スー・チー」で検索して来てくださった方が大勢おられたようで申し訳なかったので、こんな記事を書いてみました。



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2005年08月05日

ジャック=イヴ・クストー(Jacques-Yves Cousteau, 1910年-1997年)

フランスの海洋学者。アクアラングの発明者の一人。

調査船カリプソ号を駆使し、海や海洋生物の研究を行い、多数の書籍、記録映画で知られる。ドキュメンタリー映画「沈黙の世界」はカンヌ映画祭でグランプリをとった。

1910年6月11日生まれ。機械好きの子供だった。

1930年 フランスの海軍アカデミー入学試験に合格。海軍航空部隊の学校に入った。

1936年 26才のとき、車の衝突事故により、航空部隊をあきらめ、海上部隊へ移る。

1937年 Simone Melchoir と結婚、2人の息子、ジーン・マイケルとフィリップをもうける。

1939年 第二次世界大戦始まる。当然フランスのために戦う。スパイとして活躍し、複数のメダルを与えられた。

1943 年に,彼とEmile Gagnan で、アクアラングを完成させる。ダイバーが数時間水中にとどまることが可能になった。

1948 年 フランス海軍のコ ルベットの艦長となり、後に、フランスの海洋学のキャンペーンの責任者になった。同じ年、海洋調査船カリプソ号を購入。多くのフィルムを作り出し, 多くの本を出版した。

1953年「沈黙の世界」

1956年カンヌ国際映画祭グランプリ

1957年アカデミー賞最優秀長編ドキュメンタリー賞受賞。紅海、地中海、インド洋、ペルシャ湾などの海中調査。

1957 年 フランス海軍を退職。ツーロンで海底に創設されたConshelfプ ログラム実験(水中生活実験)に参加。一定期間、水中に住み、働いた。

1963 年 生きている海

1965 年 アカデミー賞最優秀長編ドキュメンタリー賞受賞。
紅海の水深120mで30日海底居住する「プレコンチナンIII計画」に成功。
ハビタットの<ヒトデ・ハウス>、円盤形潜水艇<ダイビング・ソーサー>などが登場。

1966 年 太陽のとどかぬ世界

1968 年 tv シリーズ制作開始 8 年にわたって、Jacques Cousteau の海底世界は鮫, クジラ, イルカ, 宝物, 及び珊瑚礁の世界を紹介。

1974 年 海洋の生命保護のための非営利グループ、クストーソサェティを設立。会員数300,000 人以上。

1975 年 Dolphins

1985 年 海洋世界

1985 年 大統領によってレーガン自由章を与えられる。

1989 年 フランスアカデミーの会員とフランスによって名誉を与えられる。

1996 年 カリプソ号シンガポール港で沈没。

1997 年 6 月25 日、心臓発作で死亡。


作品・書籍に関してはあまりに膨大なため、まだ調査、整理中。
子供の頃、クストーの海の世界ってTV番組があったのを覚えている。
今は息子が環境問題で活躍中。捕鯨問題で日本に噛み付いたのはその息子である。

陽のあたっている部分が大きいんだけど、元軍人のせいか、妙に謎が多い人のような気がする。
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2005年07月31日

Virginie Dedieu(ビルジニー・デデュー)

フランスのシンクロの女王

1979年2月25日生まれ/出身地:南仏プロヴァンス/身長:164cm/
6歳でシンクロを始め、13歳で仏ジュニア代表になる。大学で建築・インテリアデザインを学んでいる。

1998年世界水泳 銀メダル

2000年シドニーオリンピックでデュエットで銅メダル。

2001年世界選手権のソロで銀メダル。

2002年FINAワールドカップでソロ世界チャンピオン。

2003年世界水泳シンクロソロ金メダル獲得。バルセロナ大会芸術点オール10点

2003年7月ビルジニー・デデュー写真集Virgin発行 
大村克巳/撮影 、集英社インターナショナル

2004年アテネオリンピックのデュエットで5位に終わるもノーズクリップを使わない演技と美貌で話題に。

2005年モントリオールの世界水泳ではロダンの恋人で彫刻家のカミーユ・グローデルの生涯を演じる。

 芸術点(AI)は5人の審判員が全員10点満点。技術点(TM)も10点が2つに9・9
点が3つ。2位のナタリア・イーシェンコ(ロシア)とは0・751点差で、文句のつけようのない連覇。

演技の後、「ベストを尽くしたかった」と報道陣に語ると大粒の涙を流した。
 そして、「これで引退します」

は?なんつった?!おい!まってくれ。あー。

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2005年06月27日

ピースメーカー、ジョディ・ウィリアムズ(jody williams)

1950年10月9日米バーモント州生まれ。
バーリントンにあるバーモント大学を卒業
1976年、インターナショナルトレーニング学科でスペイン語と英語教育の修士号を取得。
その後、メキシコで2年間英語を教える。
1984年ワシントンDCに移り、ジョンズ・ホプキンス大学の大学院で、国際関係学の修士号取得。

1984年から1986年までニカラグア・ホンジュラス教育計画(Nicaragua-Honduras Education Project)のコーディネータ。

1986年から1992年まで、エルサルバドルへの医療援助のディレクター代理。

1991年 ベトナム退役軍人アメリカ財団(VVAF)会長のボビー・ミューラーが地雷禁止活動のコーディネートを依頼。

この辺のいきさつがよく分からない。退役軍人が地雷廃絶を依頼?

1992年10月、対人地雷の廃絶を求めるNGOの国際連合組織、地雷廃絶国際キャンペーン(the International Campaign to Ban Landmines)(ICBL)設立。

ジョディが代表に就任。オフィスやスタッフもなく、ファックスやEメールで情報を流し、世界中のNGOと連携。国連、欧州議会、アフリカ統一機構(OAU)などでも講演を行い、対人地雷禁止条約の成立の推進役を果たした。60ヶ国1000以上のNGO団体の支持が集まり、約5年で対人地雷全面禁止を実現する。


対人地雷禁止条約

対人地雷の廃絶を目指し、その使用、生産、貯蔵、移譲を禁止。締約国に対し、貯蔵地雷を条約発効後4年以内に廃棄し、埋設地雷を10年以内に除去するよう義務付けた。
大国主導の軍縮条約ではなく、NGOが主導した多国間条約。
1997年9月にオスロで条約案採択、同年12月オタワで調印、
99年3月発効。
(2005、1、8熊本日日新聞)

97年地雷禁止キャンペーン(ICBL)とともにノーベル平和賞受賞

著書「銃声がやんだ後」95年(共著)

2005、1、8熊本日日新聞のインタビューより

「1990年代初めに廃絶運動を始めたとき地雷犠牲者以外の誰も、対人地雷のことを問題にしていなかった。しかし今や対人地雷に関する限り、世界は明らかに安全でより良い場所になった。この条約は今、実効ある国際条約の輝かしい実例と認められている。ノーベル賞委員会も、私たちがユートピア的な夢を現実のものとしたと評価した。」

「地雷廃絶の運動は世界を変えようとする取り組みの一部。われわれの成功は人々に世界を変えることは可能だという希望を与えたと思う。われわれができたのだから、他の人々も別の問題でできるはずだ、と」


ブッシュ嫌いでも有名らしい。
ブッシュが大統領やってる一方でこういう人物も出てくるアメリカは不思議な国だ。
しかし、まあ、やってみるもんだ。
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2005年05月31日

サラ・ベルナール(1844〜1923)

ベル・エポック、古き良き時代と言われた、19世紀末から第一次大戦の頃にかけての女優。世紀末と言われた時代背景もあってか、退廃的と言うか、自由奔放というか、とにかく伝説の女優である。浪費家で癇癪持ち、男癖悪く、星の数ほど恋もした。その相手の中には文豪ヴィクトル・ユーゴーも入っていたりする。

 当時の女性としては珍しく、煙草を吸い、男装し、気球で旅行し、ボクシングを習い、チーターを飼っていた。(今でもあまりいないって)。

30すぎてハムレットを演じ、(オフェーリアではなかったらしい。)50才ではジャンヌダルク(19歳で死んだ)を演じ、60過ぎて、椿姫を演じ、飛び降りシーンで、マットがずれていたために、右足を切断するはめに陥るが、死ぬまで舞台にたった。

ドレフュス事件ではゾラを焚き付けて、ドレフュスを助けさせ、普仏戦争では従軍看護婦を務め、第1次世界大戦時のアメリカ公演では三色旗を振り回し、「ラ・マルセイユーズ」をうたった。

 アルフォンス・ミュシャのポスターのモデルとしてもあまりにも有名である。戦闘的で、エゴが強い美女のはしりのような存在で、情熱的な愛国者であり、正義感が強い一方で、世紀の文豪すら惑わす悪女でもあった。まさに美女野獣である。似たようなキャラクターに、少し後の時代のゼルダ・フィッツジェラルドがいるが、サラはゼルダと違って、燃料切れを起すことなく時代を駆け抜けた。

面白いが、普通の人はあまりお近づきにならない方が賢明といえるタイプである。

伝記
@サラ・ベルナールの一生 本庄圭輔 新潮社

サラ・ベルナール年表
1844 出生。
1870年 普仏戦争 従軍看護婦として参加
1872年 コメディ・フランセーズの座員として、欧米を巡業
1895年 ドレフュス事件、スパイ冤罪事件で、エミール・ゾラをたきつけて、裁判を戦わせる。

1899年 ハムレットを演じる。ミュシャが描いたこの公演のポスターは、20年程前、破損品にも拘らず、300万円の値がついたという。

1912年 「エリザベス女王」に出演
1914年
この年、椿姫に出演 事故で右足切断
第一次大戦始まる。
アメリカ参戦を訴えて、三色旗を振り回し、ラ・マルセイユーズを歌う。
1923年 逝去

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2005年05月29日

白洲次郎(1902〜1985)

 一般的には、奥さんの白洲正子さんの方が日本の伝統文化の解説や骨董趣味で有名かも知れない。
 
 白洲次郎は昭和史の隠れた巨人と言われる。英国で学究生活をしていたにもかかわらず、大所高所からの適切な助言がものをいい、常に大企業の取締役に就任してしまう不思議な人で、日本全体がおかしくなってくると、戦争の勃発と敗戦、食料難の到来を予見し、田舎に引っ込んでしまう。
 金持ちのボンボンのはずが野良仕事も大好きだったりする。

いざ終戦となるや、昭和の名宰相、あの吉田茂のお目付け役としてGHQと堂々と渡り合う。あの時代に、戦争に負けたぐらいでおたおたするなと言ってのけるあたり恐るべしである。

 英国式教養の威力というべきか。欧州では戦闘に破れても、その後の外交交渉で実質的に勝利した例は多くあるし、地方に身を置きながら、中央に目を光らせ、距離をおいて見ることで、渦中ではできない判断をし、一旦事があるときは、迅速に中央に舞い戻って問題を処理するカントリージェントルマンという生き方の伝統があるという。リーダー本質はまさにそこにあり、本当に恐るべきは、彼を育んだ英国かもしれない。

占領軍に抵抗した唯一の日本人といわれるだけではなく、通産省の生みの親となり、戦後の経済成長の礎を築き、東北電力の会長としてエネルギーの供給に尽力した。

占領軍のいいなりに作られた独立宣言文を日本語に書き直させ、沖縄と小笠原について書き込ませたのは白洲だった。

「自分の国の独立宣言書を他国の言語で書くバカがどこにいる」
ごもっともである。

軽井沢のゴルフクラブの理事長時代には日本の歴代首相のマナー違反を叱りつけたエピソードを持つ。マナー違反に対してはマッカーサーさえどなりつけた男だった。

 180cmの長身で、80歳ごろまでポルシェを乗り回し、服装もダンディで知られた。すさまじいまでの能力を持ちながら私心がなく、プリミィティブな正義感をもちつづけ、土木現場のおっさんやスーパーの姉ちゃんにも好かれた日本最強の頑固爺。
こんな人が実在したこと自体、昭和史の奇跡である。


白洲次郎の著作
「プリンシプルのない日本」 ワイアンドエフ 

伝記

@風の男 白洲次郎 新潮文庫 青柳恵介著
A白洲次郎 平凡社コロナブックス


関連本

「白洲次郎の流儀」新潮社

白洲次郎 占領を背負った男 」北 康利 著


白州次郎年表
1902 2月17日 兵庫県芦屋において、出生。
1919 神戸一中を卒業。ケンブリッジ大学クレアーカレッジに入学
1925 ケンブリッジ大学卒業
1928
大学院で中世史を専攻。実家の「白州商店」倒産のため帰国
1929 
樺山正子と結婚。ジャパン・アドヴァタイザーという英字新聞の記者となる。後、セール・フレーザー商会の取締役
1937
日本食料工業の取締役に就任。吉田茂と親交を持ち、英国大使館を常宿とする。この年日独伊三国防共協定締結
1940
開戦と敗戦を予見。仕事から手を引いて、鶴川村で土地を購入、農業をはじめる。一方吉田茂の反戦グループに参加。
1941
日米開戦 44年以降白州の予想通り日本は食糧難に陥る
1945
終戦連絡事務局参与に就任。GHQにガツンといってやれた唯一の日本人となる。
1946
日本国憲法成立に立ち会う。終戦連絡事務局次長に就任
1947
終戦連絡事務局次長退任
1948
初代貿易庁長官に就任。商工省を改組、通産省を成立させる。
1951
電力会社の分割民営化推進。東北電力会長に就任。サンフランシスコ講和条約締結の全権委員団に参加(同行?)
1959
東北電力会長退任, 荒川水力発電会長、大沢商会会長、大洋漁業、日本テレビの社外役員、等を歴任,軽井沢のゴルフクラブの理事長
1985
11月28日逝去
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2005年05月28日

サチェル・ペイジ(1906〜1982)

1947年以前、大リーグは白人だけのものであり、ニグロリーグが別に存在していた。

 その実力は大リーグをすらしのぎ、ニグロリーグと大リーグの対戦成績は、ニグロリーグ側の309勝102敗といわれている。サチェル・ペイジはその象徴といわれる存在である。
 生涯に2500試合以上に出場。少なくとも二千勝以上しているといわれている。350試合以上の完封勝ち。ノーヒットゲーム55回以上、1日3勝、年間105試合に登板して104勝、月に29回先発、などなど無茶苦茶な記録と伝説の持ち主である。

 試合数から言っても現代では到底ありえない記録だが、当時のニグロリーグでは年間200試合以上しており、1日3試合も珍しくはなかったようだ。48歳で大リーグに登場し、すべての大リーグ投手の速球がチェンジアップに見えるといわしめた。

 この他にもニグロリーグには黒いベーブルース、ジョシュ・ギブソン(ホームラン800本以上,現在の最も広い球場より三割がた広かった旧ヤンキースタジアムで、唯一、場外ホームランをかっとばした男。)や、野球史上最速の外野手クール・ババ・ベル(ベース1周12秒 年間175盗塁 犠牲フライでセカンドから生還していた。)などマンガみたいな選手がごろごろいたらしい。

最近、野球への関心が薄れてイチローぐらいしか気にならなくなってきたが、こんな物凄い野球なら、ぜひ見てみたいものである。


自伝
@伝説の史上最高投手 サチェル・ペイジ自伝 佐山和夫訳 草思社

関連本・伝記一覧
@史上最高の投手はだれか 佐山和夫 潮出版 

A黒人野球のヒーローたち 佐山和夫 中公新書

B栄光なき天才たち第1巻第6話 作・伊藤智義 画・森田信吾集英社 1987年 当時週刊ヤングジャンプに連載されていたもの。(昭和61年45号)


サチェル・ペイジ年表
1906年 7月7日 アラバマ州モービルにおいて、出生。
1926〜1927年 チャタヌーガ・ブラック・ルックアウツ
1926〜1930年 バーミンガム・ブラックバロンズ
1930年
バルチモア・ブラックソックス
1931年
クリーブランド・キューブズ
1931〜1937年
 ピッツバーグ・クロフォーズ
1935〜36、39〜48、50〜55年
カンサスシティ・モナクス
1937年
サント・トミンゴ
1938年
ニューヨーク・イーグルス

1938年
メキシカンリーグ

1939年
サチェルペイジオールスターズ
1943年
ニューヨーク・ブラックヤンキース
1943年
メンフィス・レッドソックス
1946、50年
フィラデルフィア・スターズ
1948〜49、51〜53、65年

メジャー・リーグ(42歳で大リーグデビュー、最高齢ルーキー)
1951年
シカゴ・アメリカ・ジャイアンツ
1956〜58、61、65〜66
マイナー・リーグ (50歳)
1967年
インディアナポリス・クラウンズ(61歳)
1982年
6月8日逝去 大リーグでの通算成績28勝31敗

42歳で大リーグデビューして28勝!?61歳で現役?!!

ジョー・ディマジオはサチェル・ペイジのことを「私が出会った最高にして最速の投手」と呼んだ。
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2005年05月27日

星野道夫(1952〜1996)

今日で橋田信介さんらのイラクでの死から1年がたつ。
http://yanenoueno.seesaa.net/article/5881155.html

星野道夫さんの訃報をニュースで聞いてから9年、来年で10年にもなる。
カメラマンというのは本当に「覚悟」がいる仕事だと思う。

星野道夫は18歳の時、地図で見つけたアラスカの村の村長に、当然一面識もないのにも拘らず、手紙を出し、単身出かけていく。このあたりの行動力は前述の浮谷東次郎を思わせる。
それから、アラスカに取り付かれ、野生動物写真家として活躍。20年もの間、アラスカを中心に自然を撮りつづけた。

 池澤夏樹が「一人で立って、自然と向き合う」というコンセプト提示していたが、星野道夫はそれを無意識に体現していたようだ。

1996年カムチャッカにヒグマの写真を撮影しに行き、死亡。彼を襲った熊は近くの森で撃たれて死んでいたが、何者が射殺したのかは分かっていない。


作品一覧
1985年 「グリズリー」 平凡社(写真集)

1986年 「アラスカ・光と風」 六興出版
(95年に福音館 日曜日文庫で再版)

「アラスカたんけん記」 福音館(児童書) 

1988年 「ムース」 平凡社(写真集)

1990年 「アラスカ 極北・生命の地図」(写真集)

1991年 「Alaska風のような物語」小学館(写真集)

1993年 「森へ」福音館書店(児童書)

「イニュニックーアラスカの原野を旅する」新潮社(エッセイ集)
(99年新潮社文庫収録)
(90年〜93年の話)

1994年 「The Grizzly Bear Family Book」

NORTH-SOUTH BOOK

「アークティック・オデッセイ 遥かなる極北の記憶」新潮社

1995年 「旅をする木」文芸春秋(99年文春文庫収録)
(94年〜95年の話)

1996年 「ナヌークの贈り物」小学館(児童書,写真絵本)

「森と氷河と鯨ーワタリガラスの伝説を求めて」世界文化社(エッセイ集)

1997年 「GOMBEゴンべ」メディア・ファクトリー

「ノーザンライツ」新潮社(エッセイ集)

1998年 「表現者」 スイッチパブリッシング

「クマよ」福音館書店(児童書)

1998〜1999「星野道夫の仕事 全4巻」朝日新聞社

1999年 「アフリカ旅日記〜ゴンベの森へ」メディア・ファクトリー

長い旅の途上」文芸春秋
2005年4月 「未来への地図」刊行


年表
1952 千葉県市川市において、出生。
1968 16歳の夏、移民船でロサンゼルスに渡り、2ヵ月のアメリカ放浪、メキシコ、カナダにも足をのばす。
1970 シシュマレフ村村長に手紙を書く
1971 シシュマレフ村にホームステイ
1975 
慶應義塾大学在学中、親友T氏がフィリピンで火山噴火に巻き込まれ死亡
1976 
慶應義塾大学卒業後、動物写真家田中光常氏の助手となる。
1977 
シアトルでハウスボーイをしながらアラスカ行きの準備。
1978
アラスカ大学野生動物管理学部入学
1982
4月アラスカ北極圏の村、ポイントホープで鯨を撮る。
1986
第三回アニマ賞受賞
1988
6月、北極海に注ぐコルビル川流域で長年探し続けたシロフクロウの撮影に成功。
1989
「風のような物語」を週刊朝日に1年間連載。
6月、友人のカレンから土地の購入を勧められる。
7月、南西アラスカのミクフィック川流域にクマの撮影に行く。

1990
この年シシュマレフ村再訪、第15回木村伊兵衛賞受賞、フェアバンクス近郊の森を購入し家を建てる。
7月、再び、南西アラスカのミクフィック川流域にクマの撮影に行く。前年と同じクマに出会う。
南東アラスカのグレーシャーベイをカヤックで旅する。
カリブーの撮影

1991
2月フェアバンクスは記録的な大雪
4月フェアバンクス近郊のクロクマの調査に参加
6月市川市動物園にて動物講演会
7月北極圏ターナ川河口でカリブーの大群の撮影
8月アドミラリティ沖フレデリック海峡でザトウクジラの撮影
この年の夏、沖縄でシュノーケリングを楽しんでいる。
1992
2月札幌で講演会
6月〜9月マッキンレー国立公園で撮影

1993
北海道,立教大、市川市で講演
4月ベーリング海セントローレンス島訪問
8月アリョーシャン列島キスカ島の慰霊祭に参加
9月コバック川を下る。

1994
岐阜県、江ノ島での国際イルカ・クジラ会議、渋谷で講演
3月直子さん妊娠
3月後半ルース氷河で撮影
6月エクアドルの写真集を作るプロジェクトに参加。ガラパゴス島で撮影
7月グッチン・インディアンの村、オールドクロウに滞在
10月オーストリア・ザルツブルクで講演
11月ペンシルバニア州ピッツバーグで写真展、近郊のアーミッシュの村を訪ねる。
11月フェアバンクスの自宅で池澤夏樹と対談

1995
スウェーデンで講演
6月東京で写真展

1996
山梨県で講演
7月ガイアシンフォニー第三番の撮影打ち合わせ
8月カムチャッカ半島クルリ湖畔でヒグマに襲われ逝去。享年43歳。
20日午後1時から千葉県市川市八幡の市川聖マリヤ協会で、葬儀。葬儀委員長は建築家、新開俊郎氏。喪主は妻、直子さん
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2005年05月26日

浮谷東次郎(1942〜1965)

伝説のレーサー。
15歳でバイクで日本中を回り、受験校を3年で中退して、単身でアメリカにわたり、放浪生活。
 だれでも学べる大学を作る夢を持ちつづけ、帰国後、レーサーになり連戦連勝。日本の自動車産業草創期の英雄の一人。コースを歩いていた人をよけようとして23歳で事故により逝去。

作品一覧
@がむしゃら1500キロ〜わが青春の門出 ちくま文庫 新潮文庫

Aオートバイと初恋と〜わが青春の遺産 ちくま文庫 

B俺様の宝石さ〜わがアメリカ横断紀行 ちくま文庫

関連本・伝記一覧
@明日への全力疾走(フルスロットル)桂木洋二著 グランプリ出版 
(レーサー時代のドキュメント)

A浮谷東次郎〜速すぎた男のドキュメント 岩崎呉夫著 三樹書房

B燃えて走れ 岩崎呉夫著 グランドツーリング社 1972年
(東次郎の伝記)

C栄光なき天才たち11,12巻 浮谷東次郎1.2 森田信吾著集英社 1991年 当時週刊ヤングジャンプに連載されていたもの。(平成2年22・23合併号〜35号まで))


浮谷東次郎年表

1942年 7月16日 千葉県市川市において、出生。
1949年 日出小学校入学。
1955年 日出中学校入学。

1956年
第1種原動機付2輪車の免許を取る。

1957年
15歳の8月。50ccのクライドラーを駆って、市川〜大阪往復1500キロのオートバイ旅行を敢行。後に「がむしゃら1500キロ」という作品になる。当時は道路事情も悪く、大人でもやらないような難コースを走破している。

1958年
 都立両国高校入学。バリバリの受験校だった。7月 側車付自動2輪車の免許を取る。ヤマハYD505を購入。 9月 小型4輪車の免許を取る。在学中にテストライダーのアルバイト。

1960年
この年、日本は安保騒動の真っ最中。10月29日。貨物船で横浜を出航。半額料金でアメリカへ向かう。合衆国にはジョン・F・ケネディが登場する。

1961年
ホームステイ先に迷惑をかけないため、労働も可能な、ニューヨーク市市立ローズ高校夜間部へ入学。2月20日 タイム&ライフ社へ勤務。メッセンジャーボーイながら、週給65ドル。当時の日本のサラリーマンより多い給料だった。4月24日 ニューヨークの一人暮しを始める。6月 ローズ高校を去る。7月19日 ニューヨークを出発。ネプチューン運送会社の大 型トレーラーに便乗。大陸横断、ロサンジェルスへ。8月4日〜21日 クリスタル湖で働く。9月4日カリフォルニア州立マウント・サン・アントニオ・カレッジ入学。

1962年(20歳)
6月。出席日数不足のため、マウント・サン・アントニオ・カレッジ退学。7月4日 大陸横断往復、オートバイの一人旅に出発。11月18日 パモーナ帰着。

1963年(21歳)
カリフォルニアのホンダ代理店でメカニックをしながら、リバーサイド、ウィロー・スプリング等の草レースに出場。
5月鈴鹿サーキットにおいて第1回日本グランプリ自動車レース大会開催。日本も既に高度成長期だった。

 6月29日 2年半ぶりに帰国(羽田着)9月。日大農獣医学部へ入学するも、目標はプロのレーシングドライバー。11月トヨタ自動車と1ヵ月の専属契約を結ぶ。鈴鹿サーキット通いをしながら、学校通い。

1964年(22歳)
3月。日大を退学。5月第2回日本グランプリ・レースに初出場。コロナの最高ラップタイムをたたき出し、11位。9月トヨタよりヨーロッパ派遣。ジム・ラッセル・レーシングスクールで講習を受ける。翌年のF−3出場招待。12月2日 宇都宮スピード・トライアルAクラスに、MG−MGAで出場して優勝。

1965年(23歳)
1月。ホンダS600を購入。雑誌に、”ホンダS600でスズカを3分10秒切って走ろう”連載。

トヨタと再契約、5月30日 第2回クラブマン・スズカ・レースに、GT−1( ホンダS600、子どもの科学を資料に改造、真っ黒に塗ってあったため、愛称カラスと呼ばれた。)とT−2(コロナ)で 初の2種目優勝。

当時の自動車業界にあって、トヨタと契約しながら、プライベートでホンダに乗るのはえらく勇気のいる行為だった。


7月18日 第1回全日本自動車クラブ選手権船橋レースに、GT−1(トヨタS800、大衆車パブリカをベースにした低馬力のスポーツカー)GT−2(ロータス・エラン)でダブルウィン。

8月20日 鈴鹿サーキットで練習中事故。 翌21日死亡。


天才というのはこういうものなのか?はやすぎるぞ!

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2005年05月25日

サン・テグジュペリ(1900〜1944)

作品一覧
@南方郵便機・1929・みすず書房

A夜間飛行・1931・フェミナ賞 新潮文庫 

B城砦 1〜3・1948出版 1936年から執筆していた。みすず書房

C人間の土地・1939・アカデミー小説大賞 新潮文庫 

D戦う操縦士・1942・みすず書房

E星の王子さま・1943・岩波書店・イラストは本人

※ACは表紙イラスト宮崎 駿

「星の王子さま」の作者として有名。
貴族の家柄に生まれ、幼くして父をなくしたせいか、子ども時代の記憶を大事にし、富の蓄積なんかより 「海を渡る風のような」生き方を望み、実行する。

生きた時代はとても厳しい。思春期に第1次世界大戦、その後も大恐慌を経て、第2次世界大戦。母国フランスの敗戦。これ以上ないくらい厳しい時代の中での人生の探求。農民が鋤を通して大地と対話するように、彼は飛行機を通して自己の完成を目指した。


1900 6月29日 リヨン市デュペイラ街8番地において、出生。
1903 ライト兄弟の初飛行
1904 父ジャン=マリ・ド・サン=テグジェペリ伯爵死去。
一家は、サン=モーリス・ド・レマンス(アン県)、ラ・モールの城館に身を寄せる。
1909 
ル・マン市に転居。イエズス会経営の聖十字学院(ル・マン)に入学。
1912 
サン=モーリス付近のアンベリュー飛行場で、飛行機にはじめて乗せてもらう。
1914
第1次世界大戦はじまる。イエズス会経営のノートル=ダム・ド・モングレ学院に転校。
1915
マリア会経営の聖ヨハネ学院(スイス、フリブール)の寄宿生となる。
1917
大学入学資格試験に合格。10月、海軍兵学校受験準備のため、パリに出て、ボシュエ学院に入学。
1919
6月、海軍兵学校入試に失敗。10月、パリ美術学校建築科に入学。
1920
第1次世界大戦終わる。
1921
4月、ストラスブール第二飛行連隊に整備兵として入隊。操縦士になるため、民間飛行免許取得の訓練開始。6月、モロッコにある第37飛行連隊に転属。12月、民間飛行免許を取得。
1922
1月、飛行操縦学生として南仏イストルに派遣、軍用操縦免許を得る。伍長に昇進。予備仕官候補生の訓練を経て、10月予備少尉に任官。第34飛行連隊に配属。
1923
1月、ル・ブールジュで飛行機事故。失速して、頭蓋骨折。     3月,除隊。ルイーズ・ド・ヴィルモランとの恋愛、空への道を断念してブロワン・タイル製作所に入社。
1924
3月、ソーレ自動車に入社、二ヶ月間の工場研修を経て、モンリュソン地区で営業マン。
1926
◎雑誌「銀の船」に処女作『ジャック・ベルニスの脱出』の抜粋、「飛行家」を発表。
 フランス航空会社に臨時雇用され,一時遊覧飛行のパイロットとなる。
 10月、ボシュエ学院時代の恩師シュドール神父の紹介で、ラテエコール航空会社に入社。
 トゥールーズの同社営業主任ディディエ・ドーラのもとで、訓練。

1927
トゥールーズ―カサブランカ線、カサブランカ―ダカール線で定期郵便飛行に従事。10月、中継基地、キャップ・ジュビー(リオ・デ・オロ、現西サハラ)の飛行場長に任命される。
1928
「南方郵便機」執筆
1929
世界恐慌始まる。
1931
4月コンスエロと結婚。フランス―南米路線の飛行に従事。12月「南方郵便機」出版
1932
マルセイユ―アルジェー間の水上機連絡飛行に従事。     8月カサブランカ―ダカール線飛行に従事。
1933
ラテコエール飛行機製造会社入社。テストパイロットになる。 11月、サン・ラフェル湾で水没自己。
 ドイツでナチス政権成立。

1934
エール・フランスの宣伝部に入る。(あのコンコルドの会社だ!) 7月、サイゴンまで長距離連絡飛行。

1935
4月「パリ・ソワール」紙の特派員となり、モスクワに行く。
 12月29日、パリ―サイゴン間の飛行記録更新を目指し、ブールージュ飛行場を出発するもリビア砂漠に不時着。奇跡の生還。

1936
8月スペイン内戦、ラントランジャン紙の特派員としてカタルーニャ戦線へ。     「城砦」執筆開始。
1937
 2月新路線調査のため、カサブランカ―トンブクトゥ―バマコ―ダカール―オラン―アルジェを結ぶ15000キロ周回飛行を成功させる。
 4月、6月パリ=ソワール紙の特派員となりスペイン行き
 8月ナチズム視察でドイツに行く。

1938
 1月ニューヨーク―フェゴ島間南北米大陸縦断飛行を企て、米大陸へ。
 2月15日、グアテマラで失速事故。重傷を負う。帰国後、スイスで療養、
 「人間の土地」執筆開始。


1939
2月「人間の土地」出版される。
4月「人間の土地」にアカデミー小説大賞

7月ビスカロス―ニューヨーク間往復飛行

8月ニューヨーク旅行

9月3日第二次世界大戦始まる。4日予備大尉として召集。

     飛行教官を経て、偵察大隊に配属。


1940
3月29日から8月5日の動員解除まで7回の出撃。

5月12日ドイツ軍フランス侵攻開始

5月26日〜6月9日ダンケルク撤退戦

6月20日北アフリカアルジェに撤退

6月22日フランス降伏

7月1日ヴィシー政権発足

8月5日動員解除 マルセイユで休養後、渡米を決意。

 11月16日リスボン着、12月31日ニューヨーク着。


1941
「戦う操縦士」執筆

1942
11月29日連合軍北アフリカ上陸
     「フランス人への手紙」

     「星の王子さま」執筆


1943
5月アルジェ渡航
6月P−38ライトニングの操縦訓練

6月25日少佐に昇進

7月21日ラ・マルサ基地より第1回目の出撃

7月31日2回目の出撃 エンジン不調 不時着

          アルジェに戻る


1944
5月サルディニア島アルゲーロ基地にある33−2飛行大隊に復帰。
7月17日コルシカ島ボルゴ基地に移動。

7月31日グルノーブル、アヌシ―方面の航空写真撮影に出撃。

いまだ帰還せず。

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2005年05月24日

オードリー・ヘップバーン(1929〜1993)

大恐慌の年に生まれ、少女期に第二次大戦を体験。幼いながらレジスタンスに参加までしている。映画の黄金時代を駈け抜けて、晩年はユニセフの仕事に邁進する。


 気がやさしくて、芯が強いイメージがあるが、この人といえども生身の人間であり、戦争体験はトラウマとなって、「アンネの日記」への出演を不可能にするし、スレンダーな体もグラマー全盛のハリウッドにあって当初はコンプレックスですらあった。やたらと浮気性の人と結婚しては離婚するなどの苦労もいっぱいしてきている。


 6歳のとき父親が失跡。9歳の時,両親離婚。13歳でレジスタンスに参加。生涯に婚約破棄1回と2度の離婚、流産3回、再婚相手は9歳年下、再再婚相手は7歳年下、59歳をすぎて、ユニセフの仕事で、アフリカ、中南米、アジアの最貧地帯を回る。


 プライベートのオードリーは華麗な外見とは裏腹に、タフな女だった。激動の中でちゃんと2人の子どもを育てたあたりさすがと思う。

1929年 5月4日ベルギーのブリュッセルで出生。
1934年 イギリスの寄宿学校に入る
1935年 父親が失跡

1938年 両親が離婚
1939年
第2次大戦始まる。
オランダのアルンヘムへ移住。母が反ナチレジスタンスに参加。
1940年 ドイツ軍アルンヘムに進駐
1941年 本格的にバレエのレッスンをはじめる
1942年 レジスタンス活動に参加。靴の中に書類を隠して運ぶなどする。
1944年 アルンヘムの戦い
1945年 5月4日オランダ解放、翌日終戦
1947年 映画初出演「オランダ7つの教訓」
1948年 イギリスへ渡る。バレエスクールに通いつつ、オーディションを受ける。ミュージカル「ハイボタン・シューズ」のコーラスラインに合格。モデルのバイトもする。
1949年 レビュー「タルタルソース」に出演
1950年 レビュー「ピカントソース」に出演共演者のマルセル・ル・ボンにくどかれる。ル・ボン氏玉砕。
1951年 実業家、ジェームズ・ハンソンと婚約
ブロードウェイミュージカル「ジジ」で主演。
1952年 「ローマの休日」の撮影。「ジジ」アメリカ巡業
ジェームズ・ハンソンとの婚約破棄

1953年 「麗しのサブリナ」撮影始まる。共演者のウィリアム・ホールデンと恋におちる。
が、まもなく後の夫になるメル・ファラー(俳優・監督)と出会う。

1954年 アカデミー賞最優秀主演女優賞
ニューヨーク映画批評家協会賞
ゴールデングローブ賞
トニー賞
メル・ファラーと結婚
オランダ・アムステルダムの戦争犠牲者救援大会に出席妊娠
1955年 流産

1957年 1年間の休養宣言「アンネの日記」への出演依頼を断る。
「武器よさらば」のプレミアショーで、出産シーンを見て気絶する。
1959年 妊娠。西部劇「許されざる者」撮影中に落馬、流産
ウエストサイドストーリーの出演依頼を断る。

1960年 長男ショーン出産
ニューヨーク映画批評家協会とイギリス映画批評家協会の最優秀主演女優賞


1962年 ビルゲンシュトックの山荘に泥棒が入る。
盗まれたのはオスカー像と下着。オスカー像だけ戻ってくる。
1963年 マイ・フェア・レディ撮影中にケネディ暗殺事件起こる。

1965年 マイ・フェア・レディがアカデミー賞12部門にノミネートされる。

1966年< 夫、ファラー、15歳のスペイン女優とのロリコンゴシップ。
一時、アルバート・フィニーにひかれる。

1967年 妊娠、流産、別居

1968年 9歳年下のローマの精神科医アンドレア・ドッティと出会う。ファラーと離婚。

1969年 アンドレア・ドッティと結婚

1970年 次男ルカ誕生

1971年 ユニセフ制作のTVドキュメンタリー「愛の世界」に出演

1974年 最後の流産(45歳)

1978年 ベン・ギャザラとのゴシップ
夫ドッティも女性スキャンダル

1980年 ドッティと離婚訴訟。俳優ロバート・ウォルダーズ(当時44歳)に出会う。

1981年 ロバート・ウォルダーズとスイスで暮らし始める。(52歳)

1982年 ドッティとの離婚成立。

1984年 自伝刊行

1987年 テレビ映画「おしゃれ泥棒2」に出演
ユニセフの要請でマカオの慈善コンサートに出席

1988年 ユニセフ親善大使となる。59歳
エチオピア,トルコ,南アメリカに視察旅行。

1989年 ユニセフの視察旅行で中央アフリカ、スーダン、バングラディシュに行く。
飢餓に関する米下院特別小委員会で証言

1990年 ユニセフの慈善コンサートツアーに出演

1991年 ユニセフのため、米上院議会で証言

1992年 ユニセフの視察旅行でソマリアに行く。
「ソマリアの窮状は危機的だが、援助は遅すぎるということはありません」

1993年 人類愛に貢献した映画人に贈るアカデミー賞ジーン・ハーショルト友愛賞受賞
スイス・トロシュナ村の自宅で結腸癌のため逝去。享年63


オードリー・ヘップバーン フィルモグラフィー

1947 オランダ7つの教訓

1950 天国の笑い声 若気の至り

  若い妻たちの物語 ラベンダーヒル一味

1951 初恋  我らモンテカルロへ行く 
オードリー・ヘプバーンの初恋
オードリー・ヘプバーンの初恋


1953 ローマの休日
ローマの休日 製作50周年記念 デジタル・ニューマスター版 (初回生産限定版)
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1954 麗しのサブリナ
麗しのサブリナ
麗しのサブリナ

1956 戦争と平和
戦争と平和
戦争と平和


1957 パリの恋人 昼さがりの情事
パリの恋人
パリの恋人


昼下りの情事 (ニューマスター仕様)
昼下りの情事 (ニューマスター仕様)


1958 緑の館
緑の館
緑の館


1959 尼僧物語
尼僧物語
尼僧物語


1960 許されざる者
許されざる者
許されざる者


1961 ティファニーで朝食を
ティファニーで朝食を
ティファニーで朝食を


1962 噂の二人
噂の二人
噂の二人


1963 シャレード パリで一緒に
シャレード
シャレード


パリで一緒に
パリで一緒に


1964 マイ・フェア・レディ
マイ・フェア・レディ 特別版
マイ・フェア・レディ 特別版

1967 いつも2人で 暗くなるまで待って
いつも2人で
いつも2人で


暗くなるまで待って
暗くなるまで待って

1976 ロビンとマリアン
ロビンとマリアン
ロビンとマリアン

1979 華麗なる相続人
華麗なる相続人
華麗なる相続人

1980 ニューヨークの恋人たち
※日本ではビデオのみ

1989 オールウェイズ
オールウェイズ
オールウェイズ




1984年 自伝 「オードリー・ヘップバーン/映画に燃えた華麗な人生]出版

オードリー ヘプバーン [TX-1522] [ポスター]
オードリー  ヘプバーン [TX-1522] [ポスター]


オードリー ヘプバーン [TX-1501] [ポスター]
オードリー  ヘプバーン [TX-1501] [ポスター]


オードリー ヘプバーン [TX-1443] [ポスター]
オードリー  ヘプバーン [TX-1443] [ポスター]


オードリー ヘプバーン [TX-1560] [ポスター]
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ローマの休日 [TX-1133] [ポスター]
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