2009年04月19日

聖母宮に行く

千田聖母八幡宮(ちだしょうもはちまんぐう)は、西暦408年(古墳時代)に、神功皇后の神霊を勧請して創設された神社です。

【御祭神】神功皇后・仲哀天皇・応神天皇

 1600年の悠久のなか、先人達が戦乱や火災などの苦難を乗り越え、守り続けてきた神社で、熊本県内では8番目に古い歴史を持ちます。


千田聖母八幡宮

山鹿市の鹿本にある神社にふらりと行ってきた。5年ぶりくらいに神社の長い石段を登った。退院直後はもう神社巡りは無理だなあと思っていたが、なんとかなるものだ。結構、長い石段を上り下りできるようになっていた。


ゴイサギ.JPG

巣と雛.JPG

聖母宮と言われるだけあってかゴイサギが巣の雛をずっと見守っていた
。山鹿は何かと伝説が多い不思議スポットだ。
posted by アマサ at 17:46| 熊本 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 神社 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2009年01月03日

初詣に行ったらイワシに遭遇

アマサのうつ日記121日目
寝正月も3日目ともなると、筋力が弱りそうな危機感を感じて外出。

菊池市にある北宮に行ってきた。初めて参拝する神社だったが、中々賑わっていた。小規模なわりに巫女さんが3人もいたし、神主さんが参拝客を一人ずつお祓いしていた。サービス満点。

何故か鳥居にイワシらしき魚の正月飾りがしてあった。
やいかがし?じゃないよね。??あれは小正月から節分じゃなかったっけ?

イワシ1.JPG

イワシ2.JPG

まあ豊穣を願う正月飾りの一種かと思う。イワシって昔は高級肥料だったらしいし。

祭神は阿蘇の国造神社から招請された神様だそうで、藤原氏の一人が平安末期にやってきて菊池氏となり、阿蘇の国造神社にお願いしてきてもらったような話が石碑に書いてあった。え?菊池氏って地元豪族じゃないの?

菊池氏や阿蘇氏というと天皇家並みに古い家だと聞く。で、2000年ぐらい前に婚姻関係があったことになってて、未だに皇族がお忍びで阿蘇のちっちゃな神社に来たりするようだ。

阿蘇の国造神社も近辺じゃ北宮と呼ばれていてややこしい。

久しぶりに神社関係の記事なので、カテゴリー神社に入れるかな。













posted by アマサ at 18:07| 熊本 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | 神社 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月10日

浅野温子さんの趣味は神社めぐり

http://www.zakzak.co.jp/people/20060908.html

zakzakによると女優、浅野温子さんの趣味は神社めぐりで、いつか全国の神社をめぐりたおすのが目標だとか。

浅野温子さんというと「あぶない刑事」が有名だが、最近は主に舞台で活躍のようだ。
「古事記」をテーマの独り舞台もやっているそうだ。

「オーラの泉」とかに出たらおもしろいかも。
posted by アマサ at 19:18| 熊本 ☁| Comment(0) | TrackBack(1) | 神社 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年06月11日

熊本と長野の奇妙な関係

熊本県と長野県には奇妙な共通点がある。
その一つは馬刺しを食べる風習、もう一つが神社の神様である。

肥後一ノ宮、阿蘇神社の祭神は健磐龍命(タテイワタツノミコト)一方長野には武五百健命(タケイオタツノミコト)がおはすという。

微妙に違うようだが、宮内庁にある異本阿蘇氏系図には健磐龍命は武五百健命の別名で、崇神天皇の代に科野(しなの)国の国造に任命され、肥後国の阿蘇神社に祀られているとあるそうだ。

武五百健命(タケイオタツノミコト)には二人の息子がある。

 兄の速水瓶玉命(はやみかたまのみこと)は阿蘇市手野の国造神社(北宮)に祀られている。最近、台風で倒れ、一部が保存されている「手野の大杉」は樹齢2千年と言われ、速水瓶玉命(はやみかたまのみこと)のお手植え!とされている。

弟の健稲背命は科野国造に任命され、諏訪神社を祭る金刺(かねさし)、神(みわ)氏へつながる。
一説によると、長野県小郡部に安宗(阿蘇)という郷名があり、長野の名家、金刺(かねさし)氏、他田(おさだ)氏の祖先は多氏で阿蘇氏と同祖と言われる。近畿の三輪山(みわやま)の主と言われたのもまた多氏である。

穂高神社があるのは安曇郡であり、安曇族と言えば古代の海人族である。現代では海のない長野県だが、縄文時代には、縄文海進といって海面が現在より高く、今よりはるか内陸まで海が入り込んでいたと言われている。

 阿蘇には海幸山幸の神話に出てくる満珠干珠があったという神社が三つもあり(阿蘇神社、国造神社、草壁吉見神社)、乙姫と言う地名や乙姫神社もある。

また田んぼに行くことをハマに行くといい、阿蘇神社のおんだ祭りなどで唄われる「お田植え唄」では

吹けや浜風なびけや竹の若立ち・・と唄う。

長部日出雄の「天皇はどこから来たか」(新潮社)には、縄文時代の地図を作るとすると、現在黄緑色に塗られている平野部はほとんど海だったことになり、天皇家もあるいは海人族の一つだったかも知れないとある。

平野部を海として地図を見ると、宮崎県や熊本県も陸の孤島ではなくなるのである。そう考えると九州各地に残る神宮皇后伝説や邪馬台国説も、面白くなってくる。





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2005年05月23日

その後の北辰信仰

鎌倉幕府と北辰信仰
鶴丘八幡宮と鎌倉の北斗七星
鎌倉幕府は月次(つきなみ)泰山府君祭を行っていた。室町幕府は四季にこれを行った。
泰山府君は北極星の精、太一の神格化であり、泰山に住む神と言われている。

泰山は中国山東省にある聖山で、無懐氏がはじめて天壇を作り天を奉り、小山に地をはらって山川を奉った。この天を奉ることを封といい、山川を奉る行為を禅といい、あわせて封禅の儀という。

以後、伏義、神農、炎帝、黄帝・・秦の始皇帝、漢の武帝等みなこれを行っている。この北極星の神は陰陽の気の元である大極の分身とされ、正式な名は玄帝上帝といい、あらゆる悪鬼妖怪を退治する。
北極星を中心として正星163個と増星181個で中宮(紫微宮)が構成され、天帝の居場所とされている。

北斗は天帝の乗り物、生死禍福をつかさどる神で陰陽五行思想の中核をなしている。
本来、北極星が天帝を表し、その周りをまわる北斗七星は天帝が乗る車ともいわれた。
いつしか北極星(妙見星)と北斗は同一視されるようになり、妙見信仰、北斗信仰とも呼ばれている。

北斗の神は寿命を司るらしい。「お前はもう死んでいる」というセリフはだてじゃないようだ。


鶴丘八幡宮は北極星か?

鎌倉の地図を見ているうちに七つの寺社の配置が北斗七星の形になっているのに気がついた。
故意か偶然かは定かではない。

明月院
別名「アジサイ寺」1160年創建、1256年北条時宗が再興、1380年足利氏満の命で、上杉憲方が改修。北条時頼の墓所がある。

円覚寺
鎌倉五山第ニ位 1282年創建、北条時宗が建立。

東慶寺
駆け込み寺として有名1285年創建、北条時宗を弔うために、夫人の覚山志道尼が建立。

浄智寺
鎌倉五山第四位 1281年創建、北条時頼の三男、宗政を弔うために、夫人が建立。

海蔵寺
1394年鎌倉公方・足利氏満の命により上杉氏貞が再建。

銭洗弁財天
源頼朝が夢のお告げで見つけた泉に宇賀神を奉ったのが、始まりとされている。
その後、北条時頼も1257年この泉を信仰した。

佐助稲荷
源頼朝が蛭が島に流されていたとき、夢に鎌倉の稲荷と名乗る神が現れ、平家の滅亡と天下取りを予言したという。
頼朝はただちにこの地に稲荷を建立した。

なんかやたらと北条時宗がらみではあるが、これだけではよく分からない。

その後南北朝時代にも陰陽道、密教系の呪術合戦が行われた。日本の支配者で信長のみは徹底的に呪術を廃し、比叡山を焼き討ちしたり、風水上の逆相の地に安土城をたてたりした。
秀吉も呪術を行うが、その仕掛けは悉く家康に破壊される。

江戸期以降の呪術、魔方陣に関しては加門七海さんの「大江戸魔方陣」「東京魔方陣」に詳しく書かれている。

「東京魔方陣」にフジTVはお台場に移転したら皇居から新しい霊気をもらえなくなる。これは無謀なのか?それとも新たな挑戦なのか?と書かれていたが、今年の騒動を見る限りでは無謀だったのかも知れない。ホリエモンも一種の呪術師か?
posted by アマサ at 20:39| 熊本 ☀| Comment(3) | TrackBack(0) | 神社 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月22日

津軽の北斗七星

平安京と桓武天皇
桓武天皇
道鏡追放後、再び藤原氏の天下がやってくる。白壁王(後の光仁天皇)を擁立し、その皇子の山部親王が桓武天皇である。桓武は長岡京に遷都を行うが、早良親王の怨霊騒ぎもあり、十年で遷都を決意する。

比叡山
長岡京で怨霊に悩まされた桓武天皇は、平安京を霊的要塞にせんと決意する。
北に船岡山・鞍馬山・貴船山、南に巨椋池、東に鴨川、西には山陽・山陰道と四神相応の地を選び、鬼門の方角には比叡山延暦寺に安倍清明の屋敷。東西南北に岩倉と大将軍神社を配置。
賀茂川べりには幸神社、上賀茂神社、下賀茂神社を造営し直し、裏鬼門には大原野神社、城南宮、、南東には剣神社、北西には愛宕神社、洛西には松尾大社、洛北の狸谷には不動尊。等々。
こうなると、ほとんどビョ−キである。

坂上田村麻呂と津軽の北斗七星
桓武天皇のビョ−キは平安京周辺だけでは修まらなかった。坂之上田村麻呂を東北に派遣したのである。そして津軽に”地上の星”が出現する。50キロに及ぶ北斗七星の形に並ぶ神社群である。

乳井神社、鹿島神社、岩木山神社、熊野奥照神社、猿賀神社、浪岡八幡宮、大星神社の七社。

天台密教最強の防御術・北斗供を津軽まで行って実行しなくてはならない理由はなんなのか?いったい桓武天皇はなんと戦っていたのか?。

各神社の地下には宝剣が埋まっているという。

天台宗の守護神・日吉大社の北斗七星
三輪山から真北にラインを引いていくと日吉大社にいたる。その西本宮に大神神社の祭神、オオモノヌシが勧請されている。

日吉大社は古代から比叡山の麓にあり、山上には延暦寺が788年に開かれた。それ以降、天台宗の鎮守神となり、山王権現・日吉権現と呼ばれるようになる。延暦寺と日吉大社の連合は山王神道を生み、鎌倉時代以降は山王一実神道となった。

日吉大社の社殿には「七」がつきまとう。山王七社、中七社、下七社があり、日吉山王祭では七基の御輿があらわれる。延暦寺の史料には、天においては北斗七星、地においては山王七社とあるという。山王北斗一体図には空に北斗七星、地上に比叡山と山王七社が描かれている。これは北辰信仰に基づき、比叡山を地上の北極星、王者とし、日吉大社を地上の北斗七星、王者の乗り物にみたてたものと思われる。

posted by アマサ at 09:52| 熊本 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 神社 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月21日

平城京と太陽の道

伊勢レイライン
水谷慶一著「謎の北緯34度32分をゆく」に「太陽の道」が紹介されている。

奈良の三輪山の麓、大神(おおみわ)神社境内を抜け、北へ向かう山の辺の道沿いに桧原(ひばら)神社がある。この神社は元伊勢と言われ、天照大神を三輪山から伊勢に移したとされている。本殿も拝殿もなく、三つ鳥居ごしに御神体である磐座(いわくら)を拝む。崇神天皇が天照大神を奉り、草薙の剣と八咫の鏡を安置したという伝説がある。

この桧原神社を中心に東西に直線を延ばすと、東に伊勢斎宮、西に淡路島の伊勢の森があり、線上には他にも卑弥呼の墓と言われる箸墓や室生寺、長谷寺の大石、倶留尊山のクルソ仏、神島等多くの寺社・古墳等の聖地が連なっている。

伊勢斎宮
「日本書紀」に崇神天皇の6年、疫病、百姓離散等がおこり、オオクニヌシと共に三輪山に奉られていた天照大神を皇女トヨイスキリヒメが、ヤマトの笠縫村で奉るようになったのが、伊勢斎宮の始まりである。
また垂仁天皇の6年倭姫が斎宮となり、天照大神が静まる地を求めて巡行をはじめ、いわゆる「倭姫伝説」となる。

春日
三輪山は春分の日に真東から登る太陽を遥拝する聖地であり、三輪山の西側一帯を春日国(かすがのくに)と呼んでいた。
三輪山の西に多神社がある。多神社を中心に南北に直線を引いてみると北に鏡作神社、南に畝傍山がある。多神社はかって春日の宮と呼ばれ、春分の日には三輪山を遥拝し、あばれ御輿をだした。平城京の東にも春日大社があり、かっては多氏の聖地だったが、その後中臣氏が氏神を奉る。中臣氏の氏神といえばタケミカヅチ、鹿島に奉られている神で藤原氏の氏神である。

平城京
藤原京から北に直線を引いていくと平城京に突き当たり、さらに北には平安京がある。平城京の西には西大寺、生駒山、東に東大寺、三笠山、北に高山、奈良山丘陵がある。風水では霊気は北から流れてくるとされ。都は新しい霊気を求め、北へ北へとスライドしていった。


東国三社
「古事記」の有名なシーンの一つに、タケミカヅチとタケミナカタが戦う相撲の事始めがある。勝ったタケミカヅチは鹿島神宮に、負けたタケミナカタは諏訪大社に奉られている。そして、この二つの神社は東西軸で結ばれている。鹿島神宮は香取神宮、息栖神社と直角二等辺三角形を形作っており、香取の祭神はフツヌシノカミ、息栖神社は天鳥船を奉っている。


鹿島神宮の北東30度には明石の浜があり、夏至の日の太陽はこの方向から昇ってくる。また南西30度の方向には富士山があり夏至の入り日は富士の方向に沈む。真西には諏訪大社がある。
この種の日時計は世界中にあり、ペルーのナスカ高原には夏至と冬至の長い直線があり、夏至の日のストーンヘンジでは石の通路の直上から朝日が昇ってくる。

熊野の二等辺三角形(トライアングル)

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2005年05月20日

飛鳥レイライン

天武天皇と壬申の乱

大化の改新
蘇我氏の専横に危機感を感じた中臣鎌足は、中大兄皇子と組んでクーデターを起こす。

奈良県桜井市多武峯(とうのみね)山頂に談山神社があるが、中大兄皇子と中臣鎌足が入鹿を倒す協議を行った「談所の森」から、その名称はきている。祭神は藤原鎌足。

天武天皇の時代に妙楽寺として創建。文武天皇の701年聖霊院を建て鎌足の木造を安置する。元々神道・道鏡色が強かったこともあり、明治の神仏分離の際、妙楽寺は廃止され、聖霊院が神社となった。比叡山の末寺として同じ藤原氏の氏寺である奈良の興福寺と抗争した歴史を持つ。

レイライン技術は春日と三輪の主、多氏から春日大社を氏神とする藤原氏へ、藤原氏から平安京の守護者で、三輪山の神を勧請した日吉大社を擁する天台宗へ受け継がれていったと推測できる。

クーデターに成功したものの、天智天皇の死後、その皇子の大友皇子は大海人皇子を邪魔と見て挙兵。壬申の乱となり、勝利した大海人皇子は天武天皇となる。天武天皇は「天文や遁甲をよくされた」と日本書紀にある。陰陽道の流出を恐れて陰陽寮を作ったのはこの天皇である。

藤原京
「新益京」(しんやくのみやこ)とかって呼ばれ、天武天皇によって調査され、持統天皇により、持統5年の冬至に近い甲子(きのえね)日、一白水星の吉日に地鎮祭が行われた。周囲を大和三山に囲まれた龍穴の地に築かれている。


巨石建造物
藤原京を中心とした南北軸上に巨石遺構「鬼の雪隠」がある。
鬼の俎、鬼の雪隠と呼ばれ、飛鳥から近鉄吉野線あすか駅に向かう道路上にある。道路上にあるものが俎、下にあるものが雪隠と呼ばれている。
もともとは古墳の石室だったもので、王か大臣もしくは大徳・小徳クラスの人物のものと言われている。

高松塚古墳
藤原京から南に直線を引くと鬼の雪隠を通り、高松塚古墳につきあたる。発見は昭和47年。七世紀から八世紀初頭、持統天皇、文武天皇、元明天皇の頃に造られたものと推定され、天井の星宿図は中央に紫微宮があり、四周に二十八宿の星座、周囲の壁には四神図が描かれている。

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2005年05月19日

神武天皇と三輪山レイライン

神武東征後
神武天皇には二人の妻があり、一人目は地元日向で娶ったアイラツヒメであり二人の子をもうけた。東征のおり三輪山の神、オオモノヌシの娘イスケヨリヒメを娶り三人の子をもうけた。アイラツヒメの二人の皇子は他の三人の皇子を殺害しようとたくらみ、逆に殺される。この時剣を振るって活躍した末弟のカムヌナカワミミノミコトは二代目天皇となり、戦うことがなかった兄、カムヤイミミノミコトは三輪山に奉られ多氏、阿蘇の君、科野国造等の先祖となった。


三輪山ピラミッド
標高467メートルで、きれいな円錐型をした三輪山は古代から崇拝の対象であり、三輪山自体を神体とする大神(おおみわ)神社がある。
本殿を持たない古い形式の神社で、別名「三諸の神奈備」ともいう。拝殿と御神体の間に三つ鳥居がある。祭神は大物主神、オオナムチノミコト、少彦名命。


斎槻岳レイライン
三輪山の北にある斎槻岳の真西に景行古墳があり、春分の日の太陽はこのラインを通る。南西にある箸墓とのラインは夏至の太陽が差し込む方向を示し、北西の崇神古墳とのラインは冬至の太陽が差し込む方位を示している。


畝傍山
欠史八代という言葉があり、初代から八代までの天皇は存在しなかったという通説があるが、何故かその御陵はことごとく、畝傍山山麓に存在する。また、神武天皇の宮跡とされる、かしわら神宮もある。

posted by アマサ at 20:20| 熊本 ☔| Comment(0) | TrackBack(0) | 神社 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年05月16日

阿蘇の聖線と神話

聖線
地元以外ではあまり知られていないが、阿蘇外輪山内に聖線と呼ばれる一直線上に並ぶ寺社(聖地)が存在している。北から国造神社(北宮)ー阿蘇神社ー高岳山頂ー白川吉見神社ー清水寺である。
さらに、おおよそではあるが、このラインが示す方向には霧島神宮がある。

方位的には太陽の動きとも鬼門とも関連性はないが、風水でいうところの龍脈上に並ぶ聖地群と言えるようである。
阿蘇神社・北宮・霧島神宮の創建は紀元前とも言われ、高岳は阿蘇の最高峰であり、白川吉見神社の境内には白川水源があり毎分60トンもの清水が湧出ている。

九州に二つの高千穂があるのはよく知られている。宮崎県西臼杵郡と鹿児島の霧島山周辺で、天孫降臨の地はどちらか論争の種になってきた。
西臼杵郡の高千穂は国郡制以前、阿蘇・久住を含んでいた時期があり、阿蘇もかっては高千穂の一部であった。とするとこのラインは二つの高千穂を結ぶ直線でもある。


阿蘇神話
阿蘇神社には阿蘇12神と呼ばれる神々が奉られている。主神はタケイワタツノミコト。
高崎山(約628m)に腰掛けて別府湾で顔を洗った!と言われる巨人神である。

 伝承をまとめると、神武天皇の孫であり、近畿より降って宮崎神宮を創建し、国見が丘で国見の呪術を行った後、阿蘇に入り、伯父である国龍神がいる草部吉見神社で従姉妹の阿蘇津媛を娶った。その後、現在の一宮町にある阿蘇神社に奉られた。

 タケイワタツノミコトの父はカムヤイミミノミコトで、この神は神武天皇と三輪山の神の娘、イスケヨリヒメの間に生まれた3柱の神の一人で、 他の二人は前述した国龍神・ヒコヤイミミノミコトと後に緩靖天皇になるカムヌナカワミミノミコトである。カムヤイミミノミコトは「古事記」によれば多氏の祖先になる。


霧島神宮
御祭神はアメニギシクニニギシアマツヒダカヒコホノニニギノミコト(!)
通称天孫ニニギである。

宮崎・鹿児島の県境付近、霧島の高千穂の峰にある。ここは竜宮城かと言いたくなるくらい絢爛豪華な朱塗りの社殿である。周辺には霧島六社と呼ばれる神社群があるが、龍脈上にあるせいか群を抜いて繁栄している。

最も古い社殿は高千穂峰と火口の間の背門丘(せたお)にあったが、噴火で焼失、現在の霧島神宮近くの旧地霧島神宮古宮跡と呼ばれる高千穂河原に移されたが、噴火で度々焼失した。現在、高千穂河原には鳥居がポツンと立っており、その向こうに霧島の山々がひろがるという、神奈備信仰状態になっている。現在の社殿は18世紀に島津氏が寄進したもの。島津氏は琉球に侵攻した際、風水の技術を入手したと言われている。


霜宮と北辰信仰
九州は熊本、阿蘇郡役犬原に霜神社がある。
一般的には阿蘇、高千穂地方の鬼退治伝説の鬼、鬼八を奉ったものとされているが、その実態は北斗七星を奉ったものという説がある。

確かに七柱の天津神が奉られ、祭壇には七本の御幣、お供え物も七つずつされている。

社に伝わる話では、神武天皇の孫、建磐龍命(タケイワタツノミコト) が近畿から阿蘇に下ったとき、霜害がひどく五穀が熟さなかったため、民草の苦しみを憂えて、天津神を奉り、霜害がなくなることを祈ったことに起源にするとされている。
火焚き神事は15歳未満の少女が忌み小屋にこもり、60日間火を焚き続ける。
この儀式は8月19日に始まって秋の訪れを告げ、北斗七星が西北の空にもっとも低くかかる10月16日に終わる。



日本でレイラインと呼ばれる一直線上・三角形・時には星座を模した寺社の配置の一部は北辰(北極星)信仰に基づいている。そのルーツは中国・朝鮮より渡来した天文道・陰陽道にあり、神道、密教とも集合して時の権力者に用いられてきた。北辰信仰自体は民間にも広まり、全国にその痕跡を残している。また北極星の周囲をめぐる北斗七星もいつしか同一視され信仰の対象になった。

この北極星の神は陰陽の気の元である大極の分身とされ、正式な名は玄帝上帝といい、あらゆる悪鬼妖怪を退治する。
北極星を中心として正星163個と増星181個で中宮(紫微宮)が構成され、天帝の居場所とされている。
北斗七星の神は北斗星君と呼ばれ、生者や死者の善行悪行を調べ、悪行が多いものは地獄の王に処分させていた。

やはり「てめえらに明日を生きる資格はねえ!!あたたた。」とか叫んで悪党を処分するのだろうか・・・。

除災招福、長寿の御利益があるとされている。


北極星を基準にした聖地は日本に限らない。四千年前の北の空ではりゅう座のツバーンが北極星だったが、エジプトのギゼーの大ピラミッドの「王の部屋」からは真北に斜めにトンネルが抜けており、この部屋の奥から正面に当時の北極星が見えていた。真南にもトンネルは抜けており、そこからはプレアデス星団が、見えた。そして、そのトンネルの口の高さは当時プレアデス星団が子午線を通るときの高さになっていた。

妙見信仰もまた北極星信仰の別名である。

八代妙見社
天武帝白鳳9年(689年)中国の寧波から妙見神が亀蛇の背に乗って海を渡り、八代郡上北郷八千把村竹原津に上陸したのが始まりとされている。妙見祭は長崎諏訪神社・博多呂崎宮と並び九州三大祭りの一つとされている。
posted by アマサ at 19:27| 熊本 ☀| Comment(1) | TrackBack(1) | 神社 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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