2006年04月23日

イタリアの世界遺産 その7 ナポリとポンペイ

ナポリはイタリア南部の中心都市で南部最大の港町。

ブーツ型のイタリア半島の足首辺りにある。

「ナポリを見て死ね」という言葉があるくらい風光明媚。
なんか同じような日本語があったなと思い、かなり悩んで思い出した。

「日光を見ずして結構と言うなかれ」

スペインでは、

「グラナダを見ていない者は何も見ていないと同じだ。」

というらしい。

市の人口約100万、独自のナポリ方言(ナポリ語)が話されている。

輝く太陽と温暖な気候、陽気な人々というイタリアのイメージは、ナポリが元になっているそうだ。

ナポリタンは実は日本で開発されたパスタ。
ナポリにはナポリタンはない。ただナポリではトマトが多く取れたため、フランス料理でトマトソースを使った料理を「ナポリ風」という意味でナポリタンと呼んでいた。
アメリカを経由して日本に入り、スパゲティとトマトソースを合わせた「ナポリタン」が誕生した。


ナポリの代表的食べ物は、ピザ(ピッツァ)。アラブ圏のパンの一種ピタがナポリに伝わり、ナポリでピッツァと呼ぶようになったた。その代表がマルゲリータ。


ナポリは紀元前6世紀古代ギリシア人の植民活動によって建市されて以来、歴史に翻弄され、次々に支配者が変わった。

ギリシア人による建市→ローマ帝国→東ゴート族、ランゴバルト族の侵入→東ローマ帝国→ノルマン人→神聖ローマ帝国→アンジュー家→アラゴン家→ヴァロア朝フランス→スペイン・ハプスブルク家→オーストリア・ハプスブルク家→スペイン・ブルボン家→ナポレオン→両シチリア王国→イタリア王国

第2次大戦後、王室は追放されていたが、最近、帰国が許されたようだ。

1995年、世界遺産(文化遺産)『ナポリ歴史地区』として登録された。かつては「ナポリを見たら死ぬ」というギャグがあったくらい治安が悪かったが、世界遺産に登録されてから、観光に力を入れ始め急速に治安は良くなったそうだ。

13世紀の建築ヌォーヴォ城 が有名。

そのナポリの近郊に1世紀まであったのが、西暦79年にヴェスヴィオ火山の噴火により遺跡となったポンペイ。

遺跡から掘り出された壁画や像から、当時の信仰がうかがえるが、当時は多神教で、ヘラクレス・バッコス(ディオニュソス)・ウェヌス(ビーナス)の生産の3神の信仰が中心だった。
「デオニュソスの秘儀」と呼ばれる壁画が奥の部屋にあることから秘儀荘と名付けられた邸宅が有名で、男根崇拝も盛んだったと言われている。

娼婦の館なども発掘され、ここで男女の交わりを描いた壁画が多く出土したため、ポンペイは快楽の都市とも呼ばれる。ただ古代では性に対しておおらかであり、当時としては普通の港町だったという説もある。

噴火当時の人口は2万人。死者は2千人といわれている。

ナポリタン!
ナポリタン!





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2006年04月07日

イタリアの世界遺産 その6 水上のラビリンス(迷宮都市)ヴェネツィア

ブーツの形をしたイタリアの北東部のヴェネト地方にある。このヴェネト地方はローマ以前の古代民族ウェネティ族に由来すると言われる。ローマ帝国時代ウェネティア州があった。

5世紀、西ゴート族、フン族、ヴァンダル族の侵入が始まり、多くの人びとが防衛に適したラグーンの島々に避難した。水深が浅く、葦で見通しが悪いラビリンスのような湿地には容易に侵入できなかった。

ランゴバルド族が侵入してきた6世紀以降、木の杭を打ち込み、土地を補強して定住するものが多くなり、町が築かれていった。今では118の島が400もの橋でつながれている。

13世紀には世界中から交易により富が集まり、文化、芸術が花開いた。「東方見聞録」のマルコ・ポーロはここから旅立った。

防衛に適した海上都市は、一方で洪水問題に悩まされてきた。

町中が水浸しになってしまうことを「アックア・アルタ」とよんでいる。かつては主に11月から3月にかけて吹く、アフリカの季節風シロッコが原因とされていた。1900年代に入って、この洪水の回数が一気に増加したのは、本土側の地下水汲み上げによる地盤沈下があった。これは影響が確認されたため、1970年には特別法令が出されて、それ以降、地下水の汲上げは禁止されてた。

1990年代になってからは地球温暖化の影響で、世界全体の水位が増加しているため、ヴェネツィア水没の危機が心配されている。

二月中旬ごろに行われる仮面カーニバルが有名。
身分も階級も年齢性別すら忘れ、庶民が政治家に、貴族が農民に、男が女に、老人が若者にと思い思いにコスプレを楽しむ。観光客もこのお祭りに自由に参加できる。
13世紀にはじまり、15世紀に一旦禁止されるが、17世紀に再開、18世紀に絶頂を迎える。

町全体が世界遺産だが、主要なものとしては独立国家としての権威を上げるため、アレクサンドリアから購入した聖マルコの遺体を安置する「サン・マルコ大聖堂」と「ドゥカーレ宮殿」があり、その前には18世紀末ヴェネツィアを占領したナポレオンが、「この広場こそ世界の大広間だ」と言ったという「サン・マルコ広場」がある。
posted by アマサ at 21:17| 熊本 ☀| Comment(0) | TrackBack(0) | イタリアの世界遺産 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月06日

イタリアの世界遺産 その5 フィレンツェの歴史地区とミラノのドミニコ修道院

フィレンツェもミラノもレオナルド・ダ・ヴィンチゆかりの街である。

レオナルド・ダ・ヴィンチは1452年4月15日イタリア中部のヴィンチ村で生まれた。
十四歳の頃、父親に連れられてフィレンツェへ行き、ヴェロッキオの工房の徒弟となる。
二十歳でフィレンツェで画家組合に登録され、翌年、 ヴェロッキオの「キリストの洗礼」(ウフィッツィ美術館蔵)で天使の絵を描いたところ、ヴェロッキオはたまげて筆を折ったというエピソードがある。

「受胎告知」「聖ヒエロニムス」「東方三博士の礼拝」(ウフィッツィ美術館蔵。未完成。)等はこの頃の作品。

当時のフィレンツェはメディチ家の支配の下、ルネッサンスの中心地であり、「老コジモ」コジモ・イル・ヴェッキオや「豪華王」ロレンツォ・デ・メディチの保護の下、ダ・ヴィンチやミケランジェロが活躍し、「ヴェッキオ宮」「サン・ロレンツィオ聖堂」ダヴィデ像がおかれた「シニョーリア広場」ラファエロの絵画があるピッティ宮等メディチ家ゆかりの建造物の多くが世界遺産となっている。

その後ダ・ヴィンチは、1482年にミラノにいき1499年まで滞在する。

ミラノのサン・フランチェスコ聖堂のための祭壇画「岩窟の聖母」(1483年―1486年頃)や、サンタ・マリア・デレ・グラーツィエ聖堂に壁画「最後の晩餐」(1495年―1498年)を描く。

サンタ・マリア・デレ・グラーツィエ修道院はブラマンテが手がけたドミニコ会の建物で世界遺産。
ゴシック様式からルネサンス様式への過渡期の建築である。
「最後の晩餐」はこの修道院の食堂に描かれている。
テンペラ画のため絵の具の剥落がひどく、いいかげんな修復にあっていたが、1999年最新技術により蘇った。

「岩窟の聖母」(ルーブル美術館蔵)の方は1483年に描かれ、異教的なメッセージが含まれているとして、注文者の怒りを買い結局、もう一枚描いて怒りを静めた。2枚目のの絵はロンドンのナショナル・ギャラリーに展示され、最初の絵はルーヴルに陳列されている。最近、ミステリー「ダ・ヴィンチ・コード」で取り上げられ話題になった。

その後フランス軍がミラノに侵攻、ダ・ヴィンチはしばらく旅に出る。チェーザレ・ボルジャ(教皇アレクサンデル6世の庶子)の元で軍事顧問兼技術者として働いたりしているが、1503年 にはフィレンツェに戻り、ヴェッキオ宮殿の「五百人の大広間」で「アンギアリの戦い」を描き始める。
「モナリザ」をサンタ・マリア・ノベッラ聖堂で描き始めたのはこの頃。(1504年)(パリ ルーブル美術館蔵)聖堂は世界遺産となっている。

さらに数年間ミラノやヴァチカンを点々とするが、1515年フランス王フランソワ1世が即位すると再びミラノを占領する。
 
1516年弟子のメルツィを連れてローマからフランスへ移り、フランソワ1世の下で余生を過ごした。

1519年5月2日アンボワーズ城の近くのクルーの館(Clos Luce)で死亡。聖フロレンティン教会で葬られる。 その後、墓が暴かれてしまい、遺骨の行方はわかっていない。

フランソワ王は悲しみを癒やすためにシャンボールの森にダ・ヴィンチの発想を取り入れた城を築く。城の真ん中には、上がる人と下りる人が出会うことがないよう、二重の螺旋(らせん)階段がある。

ダ・ヴィンチが描いた理想の都市の階段を実現させたものといわれている。

中央の塔には王家の紋章が輝き、王と神が対をなすように中央の塔に向かって右の棟には王の部屋が、左の棟には礼拝堂が築かれている。

余談だが「沈黙の艦隊」「ジパング」で知られる漫画家、かわぐちかいじの作品に、ダ・ヴィンチを主人公にした「COCORO 全4巻(第一部・完)」 がある。
posted by アマサ at 18:50| 熊本 | Comment(0) | TrackBack(0) | イタリアの世界遺産 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月05日

イタリアの世界遺産 その4 ローマの歴史地区とヴァチカン市国

主に映画「ローマの休日」に出てきた世界遺産の紹介。

◎サン・ピエトロ寺院
サン・ピエトロ寺院とクーポラから眺めたサン・ピエトロ広場の場面が「ローマの休日」のタイトル・バックで使われている。

324年コンスタンティヌス帝が十二使徒の筆頭ペテロの埋葬地に聖堂を建てたのがはじまり、16世紀になって新聖堂の建設が始まるが一旦中断し、1546年になってミケランジェロが主任建築家になって再開。約120年後の1626年にほぼ完成した。

そのミケランジェロの傑作があるのが、

◎システィーナ礼拝堂

ミケランジェロの傑作大天井のフレスコ画「最後の審判」がある。修復・洗浄作業が数年かけて行われ、当時の鮮やかな色彩を見ることができる。教皇シクストゥス4世の命により4年半かけて描かれた。完成は1481年。


◎サンタンジェロ城

135年にハドリアヌス帝の霊廟として着工139年に完成。14世紀から17世紀に改築されて、教皇の居城となった。

ローマの休日」では船上ダンスパーティが行われ、アンとジョーが情報部員相手に大乱闘を繰り広げ、一緒に河へ飛び込んで追手の目を逃れるシーンがサンタンジェロ城の真下、テヴェレ川で撮影された。

アン王女がテヴェレ川に鼻をつまんで飛び込む場面では、実に撮りなおし10回。
オードリーとグレゴリー・ペックは10回もテヴェレ川に飛び込んだ。

◎パンテオン
ギリシャ語で万神殿。(すべての神々の神殿)
16本の円柱からなる正面部とドーム屋根の組み合わせ。
609年よりキリスト教の聖堂。

「ローマの休日」ではパンテオン右手のロトンダ通りに、オープン・テラスのカフェがあるという設定。

実際には、ロトンダ通りに映画のようなテラスはない。映画で使用されたのは、バブィーノ通りにあるカフェ・ノテーゲン。
スペイン広場からポポロ広場に通じるバブィーノ通りの途中にある。
が、パンテオン手前の広場には、いくつものテラスが並んでいて映画の雰囲気を味わえる。

◎コロッセオ
宮殿から抜け出したアン王女が眠ってしまった場所がコロッセオの前。
5万人を収容した古代ローマの円形闘技場。円形闘技場自体はいくつも作られコロッセオはその代表格。

1世紀後半に作られ、何度も再建されている。

剣闘士同士や剣闘士と猛獣との壮絶な闘いが繰り広げられたことで有名。
いわゆる「パンとサーカス」政策の一環で、民衆の関心を政治からそらすには効果的だったといわれる。

◎ヴァチカン  
1929年2月11日、ラテラーノ条約で教皇を元首とするバチカン市国がムッソリーニ支配中のイタリアから独立。

ローマの一角にあり、人口は約1万人。日比谷公園の3倍程の面積。世界最小の国で、国全体が世界遺産。

独自の警察、法廷、貨幣、郵便局、放送局もある立派な独立国。

サン・ピエトロ大聖堂、システィーナ礼拝堂、ラファエロの間、ヴァティカン美術館等がある。


「ローマの休日」に出てくる有名だけど世界遺産じゃない観光地

◎真実の口は、真実の口広場にあるサンタ・マリア・イン・コスメディン教会にあるが、世界遺産ではない。海神トリトーネの顔をした大きな円盤で、「嘘つきはかまれる」という言い伝えが有名。実は、ローマ帝国時代の水道管の蓋である。フォロ・ロマーノ近くのサンタマリアインコスメディン教会の入口にある。

◎スペイン階段

建設当時、近くにスペイン大使館があったことからこの名がついた。世界遺産ではない。

アン王女が、階段でジェラートを食べるシーンで有名。階段下の 舟の噴水 の向こうはブティック街になっている。プラダ、グッチ、フェラガモと名だたるブランドが軒を並べる。


◎ヴェネツィア広場
新聞記者とアン女王が原付きに乗って疾走するシーンが有名だが、ローマ市内では実際に原付きが多いらしい。撮影はヴェネツィア広場周辺で行われた。
posted by アマサ at 16:40| 熊本 ☁| Comment(0) | TrackBack(2) | イタリアの世界遺産 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年04月02日

イタリアの世界遺産 その3 ピサのドゥオーモ広場

11世紀から13世紀にかけてイタリア、トスカーナ州のピサは海運都市国家として地中海の覇権を握り、繁栄した。
1118年に完成したドゥオーモ広場の大聖堂はその象徴と言われている。
いわゆるピサの斜塔はその鐘楼である。

“ドォーモ”というと九州朝日放送(KBC)で放送されている深夜のローカル情報番組だが関連は不明。

現在5度30分南に傾き中心は約5メートルずれている。最新の建築技術をもってすれば、斜塔を真っ直ぐにすることは可能だそうだが、ピサの”斜塔”を目当てに毎年1千万人もの観光客が訪れているため、傾いたまま倒れないように懸命の補強工事が続けられている。塔の傾きを測るセンサーだけでも200個もあるという。

なんとなくエラーがある切手やコインが高値なるような話だ。
ただのピサの塔だと誰も観に行かないのだろうか?

ガリレオ・ガリレイはこのピサの斜塔から重さが違うものを落として重力実験を行ったという故事があるが、実際に行ったかどうかは不明。。

落体の法則
1、物体が自由落下するときの時間は、落下する物体の質量には依存しない。
2、物体が落下するときに落ちる距離は、落下時間の2乗に比例する。

ウィキペディアによると、この法則を証明するために、ピサの斜塔の頂上から大小2種類の球を同時に落とし、両者が同時に着地するのを見せた、という有名な故事はガリレオの弟子の創作で、実際には行われていないとされていた時代があったが、当時の技術でも16分の1秒までなら計測はできたという指摘があり、実際に実験は行われただろうという説もある。

実際に同じ高さから質量の違う物体を同時に落下させると、空気抵抗のため、質量の大きいもののほうがわずかに先に落下する。

感覚的には質量の大きいもののほうが速く落下するような感じがするが、これはアリストテレス以来の勘違いらしい。

西原理恵子は電車の中でジャンプすると後ろの壁に激突するような気がすると著書の中で述べていたが、これは慣性の法則とかいうのがあって無事に着地できるらしい。管理人の物理の知識も似たようなものである。

ガリレオというと地動説を唱えて裁判にかけられたことでも有名だが、1992年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ2世は、ガリレオ裁判が誤りであったことを認め、ガリレオに謝罪した。ガリレオの死去から359年後のことだった。
posted by アマサ at 01:49| 熊本 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | イタリアの世界遺産 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月31日

イタリアの世界遺産 その2

アッシジのサン・フランチェスコ聖堂と関連建造物群

聖フランチェスコは13世紀の人物で、イタリア、ウンブリア地方アッシジAssisiの富裕な織物商人の子として生まれた。

家が裕福なこともあって若い頃は放蕩の日々を贈る。1206年に神の啓示を受け、それから清貧の生活に入る。

そのくだりは、映画「ブラザーサン・シスタームーン」(1972年作 ゼッフィレッリ監督)に描かれている。

隣国 との戦争に出かけていたフランシスコ(グラハム・フォークナーは、熱病におかされて帰ってくる。

何週間も生死の間をさまよったあげく、彼は精神的な目ざめを覚えた。自然の中に愛や平和を見て、本当に人間らしく生きたい! そして美しい娘クララ(ジュディ・バウカー)との出会い、雪でおおわれた白い野原にサン・ダミアノ教会の再建を目ざす。同映画パンフより・・・

1210年「小さき兄弟たちの修道会」を設立し、貧者や病人に奉仕しながら生涯をすごす。

フランチェスコはよく聖書のマタイ伝 6・26-31の言葉を口にした。

「空の鳥を見よ。蒔きも刈りも、倉に収めもしないのに、あなたたちの天の父はそれを養って下さる。‥‥‥野の百合がどうして育つか見よ。苦労もせず、紡ぎもしない。‥‥‥今日は野にあり、明日はかまどに投げ入れられる草をさえ、神はこのように装わせて下さる‥‥‥だから何を食べ、何を飲み、何を着ようかと心配するな」

彼は「太陽の歌」という書の中で、動物や草花までも兄弟と呼び、死をも姉妹と呼んでいる。「太陽の歌」はイタリア最初の国民文学と言われている。

エジプトのイスラム教徒への宣教や聖キアラとの交友でも有名。
1224年に歴史上最初の聖痕を受けた。

1226年10月3日に亡くなる。
その2年後サン・フランチェスコ聖堂が着工された。ゴシック建築の傑作と言われるこの聖堂は町のシンボルとなった。ジョットをはじめ当時の一流の芸術家たちのフレスコ画で覆われ、宗教絵画の宝庫となっている。

他にもゆかりの建築群としてサン・ルフィーノ大聖堂、サンタ・キアラ聖堂、サン・ピエトロ聖堂などが世界遺産に登録されている。

日本ではこんな関連図書も出ている。

アッシジの光」 詩・絵/葉 祥明
英仏訳/マリアの宣教者フランシスコ修道会 

「朝の光の中で St. FRANCIS OF ASSISI」 
葉 祥明著 愛育社

アッシジの太陽―フランチェスコの足跡を訪ねて
助安由吉著  エイト社 (2002-11-01出版)

聖フランチェスコの平和の祈り

わたしをあなたの平和の使者としてください

憎しみのあるところに
愛をもたらすことができますように

いさかいあるところに赦しを

分裂のあるところに一致を

迷いのあるところに信仰を

誤りのあるところに真理を

絶望のあるところに希望を

悲しみのあるところに喜びを

闇のあるところに
光をもたらすことができますように
助け、導いてください

慰められることよりも慰めることを

理解されることよりも理解することを

愛されることよりも愛することを
わたしが求めますように

わたしたちは与えることにより与えられ
赦すことによりゆるされ
人のために死ぬことによって
永遠の命をいただくのですから


管理人も昨年生死の境をさまよったが、目が覚めても何故か俗人のままで、ただ金が無い点だけは一致している。(笑)
posted by アマサ at 12:30| 熊本 | Comment(0) | TrackBack(1) | イタリアの世界遺産 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年03月30日

イタリアの世界遺産 その1

・アルベロベッロのトゥルッリ

ブーツに似たイタリア半島のかかとの辺りにアルベロベッロはある。さとう玉緒のギャグベロベロベーを思わせる響きだが、「美しい木」という意味。

トゥルッリ(Trulli----単数形はトゥルッロ=Trullo)と呼ばれる白壁でとんがり屋根の家屋が密集する。開拓農民の住居として作られた簡易住居だが、16世紀半ばから存続している。
1996年世界遺産の文化遺産に登録された。

・カステル・デル・モンテ

デル・モンテというとケチャップとかトマトジュースを連想するが、両シチリア王国のフェデリーコ1世が1240年頃作った八角形の城。ローマ古典様式、ゴシック様式、イスラム様式が入り混じっている。

城の付近で生産されるイタリアのD.O.C.ワインの名にもなっている。
D.O.C.は統制保証付原産地呼称ワイン。イタリアのワインの最上位に位置付けられる分類。

・バルミニのヌラーゲ・ス・ヌラクシ

サルディニヤ島にある石積みの要塞化した家屋をヌラクシという、bc2000頃からbc8世紀頃までに作られた。先史時代の要塞遺跡。
その一つがバルミニ村のヌラーゲ・ス・ヌラクシで高さ18・5m直径11mもある。

・エオーリエ諸島

エオーリエというとエアコンみたいだが、地中海の火山島。ヴルカーノ島、ストロンボリ島は火山分類のヴルカーノ式、ストロンボリ式の元になった。

イタリアはさすがに伝統国だけあって、ローマ、ヴェネツイアをはじめ世界遺産の数が異様に多い。ある程度たまったらカテゴリ分けしたい。
posted by アマサ at 07:22| 熊本 | Comment(0) | TrackBack(0) | イタリアの世界遺産 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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