2006年11月26日

「愛国心」の謎

 週刊文春を読んだところ小林信彦氏のエッセイで映画「硫黄島からの手紙」についての文章があり、その中にイーストウッド監督が「生きて戻れない島に送り込まれる」日本人のメンタリティが理解できないとパンフの中に書いていたとあった。これに対し小林氏は、

『当時、小学校(国民学校)6年生だったぼくにとって、これは当然のことであった。お国のため、天皇陛下のためなら、いやでも仕方ない。いやだといえば、「貴様、愛国心がないのか!」とビンタをくらう。』

と書かれていた。戦後生まれの私はイーストウッド監督同様にこの文章が分からない。

ビンタをくらって発生するのは「愛国心」なんだろうか?「恐怖心」や「反発心」の間違いではないのかと、まず思った。

しかし、それでも意味が通らない。「恐怖心がないのか!」では叱ったことにならない。ましてや「反発心」では余計意味が通らない。

そこで前段を読み返してみると、『お国のため、天皇陛下のためなら、いやでも仕方ない。』とある。うーん、これを一言で言うと「忠誠心」かな?

あてはめてみると、
『いやだといえば、「貴様、忠誠心がないのか!」とビンタをくらう。』

おお!意味が通るではないか!!
戦前において「愛国心」とは「忠誠心」のことだったのだ。

自分の中では天皇や国家に対する忠誠心と国を愛する心ないし態度には随分ギャップがあるような気がするし、「愛」と「犠牲」は別の概念だと思うのだが、教育基本法改正で付け加えられた愛国心は文字通りの「愛国心」なのかそれとも「忠誠心」の別名なのか気になるところだ。

個人的には主権在民の現代に忠誠心を持ちだされても当惑するしかない。
天皇家が食わせてくれるのなら発生するかもしれないが、あいにくと雲の上の遠い存在だ。歴史上の人物に近い。

かつての侍は主君に忠義を尽くしたというが、それは禄を与えられ、家が存続するのが前提だった。
戦前の軍隊も一般国民よりはるかにいい物食っていたと聞く、特権階級であれば忠誠心があっても不思議は無いし、軍隊組織に忠誠はつきものだろう。

しかし、使い捨て同然のリストラが横行するサラリーマン社会で忠誠心は発生しえない。
過労死しても会社は神社に祀ってはくれないし、祀られてもしかたないのである。
努力しても報われなければ忠誠心どころかやる気すら失せていくのが人間だ。一般ピープルにそんなことを言われても困るのである。

「愛国心」という言葉がトラウマになっているのは日本だけではないようで、中国や韓国では「愛国心」というのは「被害者意識」という意味らしい。これくらい正確に使われない言葉も珍しい。「憎しみ」がなければ「愛」もないなどと言う人もいるが、「憎しみ」は「恐怖」と「怒り」が複合した感情で「愛」とは別物だ。

ついでにいうならナショナリズムは愛国ではなく「国益優先主義」でいわゆる愛国は「パトリオティズム」だ。「利害」と「愛憎」もまた違う言葉だ。

国家と自己を同一視できるような国なら愛国心も自然に生まれるだろうが、弱者を切り捨てまくる国と弱者の一人にすぎない自分を同一視しろといわれても無理と言うものだ。
国民を愛さない国が愛国心を強要しても国民に愛されることは無い。服従がせいぜいだろう。

もっとも最近の右傾化は国と自分を同一視することで強くなったような錯覚を楽しむ人たちの増加によるものだそうで、「愛国心」は特権と錯覚によって生じるものらしい。







posted by アマサ at 17:24| 熊本 ☁| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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