「慰霊の日」は沖縄県だけが公休日となる。1945(昭和20)年6月23日、沖縄守備軍指令官の牛島満中将と長勇(ちょう いさむ)参謀長が糸満(いとまん)市摩文仁(まぶに)の洞窟壕で自決した日で日本軍の組織的抵抗が終結した日とされている、実際はその後も戦闘は続いており異論もある。
米軍は3月26日、慶良間諸島の座間味島など数島へ上陸。4月1日には本島に上陸をはたした。
艦艇数1500、(艦隊空母18、護送空母50、戦艦18等)兵員55万人(うち上陸部隊18万)アイスバーグ作戦(Operation Iceberg)と呼ばれた。
守る日本軍は約120,000人。日本軍は大部隊の展開が困難な地形に米軍を誘導し小銃、軽機関銃で掃射して戦車部隊と歩兵部隊を分断、戦車部隊を速射砲、地雷、破甲爆雷によって破壊、駆けつけてくる敵の応援部隊を重砲で叩くという戦法で米軍を苦しめた。
さらに島内の戦力を宜野湾以南に結集し、ひきつけて迎撃し流血を強いる持久作戦をとった。
大本営はこれを理解することすらできず、消極的かつ航空作戦軽視と批判し、飛行場再確保を要請して、守備軍司令部を混乱させた。
戦争指導の稚拙さもあって5月4〜5日に強行された守備軍の総反撃は大打撃を受けて失敗。
日本軍は消耗しつつ5月27日に津嘉山、30日にはさらに本島南端の摩文仁(まぶに)に撤退。そこで壊滅する。
米軍は最初に中央部に上陸し、日本軍と共に南部に逃れようとした住民の多くが巻き込まれて犠牲になった。米軍のみならず日本軍にスパイ扱いされ虐殺された住民も多かったという。
少なくとも県民の四人に一人が死亡し、従軍記者をして戦争の醜さの極致といわしめた。
犠牲者の正確な人数は未だに不明で20万人をこえているという説もある。当時の沖縄の人口は45万人だった。
せめて軍と反対方向の北部に住民を逃がす配慮があればと情けなく思う。
その他に3000機を超える特攻機が沖縄沖の米艦隊に突撃し36隻を撃沈し三百数十隻に損害を与えた。戦艦大和をはじめとする第2艦隊も水上特攻を試みるが沖縄に行き着くことはなく3000名を超える犠牲者を出した。
以前このブログで戦略段階における失敗は現場がいかに奮闘してもカバーしきれないと書いたが、これはその究極の例かもしれない。
命を捧げた特攻隊員の犠牲は尊いかもしれないが、そこまで事態を悪化させ、そんな外道の戦法を強要した指導者達は己の愚かさを恥じるべきだろう。
さらに言うなら経済政策や外交の失敗を戦争でカバーしようなどという発想が根本的に間違っている。
指導者が失敗の責任を取らず国民に痛みばかりを強いる図式はいつの時代もありうる。サバイバルの知恵を身につけたい。
犠牲になられた方々のご冥福をお祈りいたします。
TBどうもありがとうございました。
沖縄戦考えると、本当に悲惨で二度と起こしたらあかんとおもいます。
権力者が、違った方向に舵取りをまちがうととんでもない結果になる。
時代が時代だからこそ、風潮にただ流されるんではなくて、「???」と疑問に持つことや、
「おかしいんじゃないかい??」と思える気づき
をもてる脳みそでありたいと思いますね。
(なかなか流されやすい人間なんですが・・・)
こちらからTBを送ったエントリーにあるように、「集団自決の軍命令」があったかなかったかが裁判で争われています。
なにか、わざと森を見ないために木を見て、全体を否定するための裁判のような気がします。
>せめて軍と反対方向の北部に住民を逃がす配慮があればと情けなく思う。
こういう悔いと痛みを感じることなく、旧軍を弁護、合理化してやまない心のありようというのは疑問です。
以前、久間防衛大臣の
「国家の安全のために個人の命を差し出せなどとは言わない。が、90人の国民を救うために10人の犠牲はやむを得ないとの判断はあり得る。」
という発言の元ネタを図書館で調べたとき、
http://yanenoueno.seesaa.net/article/29557821.html
自衛隊が守るのは国家であって国民ではないと気づき悲しかったです。
国民保護法というのも国民を自衛隊に協力させるための法律で保護のホノ字もないようです。
自衛隊がそうなら旧軍はなおさらだと思いますが、何故今頃旧軍を正当化したい人がいるのかはよく分かりません。